
イズオカヨシユキ Chronicle
画業の軌跡
1970年、広島生まれ。8歳で画家を志すも、色覚特性により美大進学を断念。大きな挫折の暗闇にありながらも、アートとの繋がりだけはどうしても手放すことが出来なかった。1989年、そして1995年の染色との運命的な出会いを経て始まった、現代染色画家・イズオカヨシユキの30数年にわたる生存と挑戦、そして純化への記録。

第一期・1989年〜2001年 若き日のもがき
「染色技術の獲得とアートへの挑戦期」
1997年の初個展から、2001年の初受賞にいたる5年間。 19歳の時に染色教室に通いながら表現の道を模索。 1995年メトロポリタン美術館で出会った染色の輝きに魅了され東南アジアへ遊学。 マレーシアで偶然出会った洋画家MD.SALLEH氏に師事、’97帰国後初個展を開催。 知識も情報も学歴もない私が25歳で出会った染色を運命だと信じ、死に物狂いで技術を自らの肉体に獲得しようと叩き込んだ時代。 染色という工芸にアートの可能性を見出し、それを自らの内面をぶつける「純粋美術(アート)」として社会に叩きつけようともがいていた時期でもある。 見返すと「色覚特性の私でも表現できる」と云う喜びと、技術を習得したいという情熱に満ち溢れているように感じる。が、独学故、成長のベクトルが散漫で自身の武器と染色の特性を理解していないように見える。が、這い上がるような圧倒的なエネルギーと行動力は今見ても驚異的で清々しい。この頃の作品数と作品のサイズ感にも狂気を感じる。
第2期:2002年〜2009年 世界との対峙
「空間への拡張と世界への挑戦」
2001年の受賞を契機に、舞台はダイレクトに世界へと。受賞作の国内外への巡回展。サンフランシスコでの二人展、そして市立美術館での三人展そして個展へ。この時期、表現のスケールに決定的な爆発が起きる。それは、単に「布を染める」という行為から、美術館という巨大な空間をどう装飾するのかと云うことへの拡張であった。2001年の受賞は人生で初めて他者に認められた瞬間でもあった。それ故、その後はこの受賞作の模倣になり、それを超える作品を制作しようと励んでいた。が、そのベクトルは間違った方に向かっていった様に思う。それでも、染色をアートの分野に接続し油彩画や水彩画、彫刻など既存のアートを越えようともがいていたように思う。国際的な視座を獲得し、自らの芸術を世界という巨大な空間と対峙させた躍進の時代。


第3期:2009年〜2021年 確固たるプロとしての実績
【商業的信頼の確立と、内省への転換】
百貨店での個展を中心に、プロフェッショナルとして打席に立ち続けた成熟期。 商業的な審美眼の中で「求められる美」と徹底的に向き合い、2019年には年間11会場を巡回するという圧倒的な販売実績を残す。 個展会場の多くが百貨店だったこともあり「人の暮らしの中で輝く作品」にフォーカスしていた時期。 具体的には自宅もしくはオフィスに飾れる作品サイズをメインに制作。 しかし、2019年の多忙のなかで内なる違和感を覚え、個展の数を年2回までと絞る決断を下す。 直後に訪れたコロナ禍という時代の断絶。自身もコロナに罹患し生死を彷徨う中で、次なる章へ向けて自らの芸術の本質を深く見つめ直す、重要な再構築の期間となった。 この期間の経験が、作家としての揺るぎない社会的信用の土台となった。
第4期:2022年〜現在 大病を乗り越えて
大病と最愛の母の死を経て出会った「能楽」は、「見える世界だけがすべてではない」と気付かせてくれた。能楽との宿命的な出会いを経て、世界観を一変させた現在進行形の第四期。 自身の色覚特性を公式に発表し、その制作過程で生まれる色彩の反転を「蝕」という作品シリーズに昇華。 見えるものと見えないものの間~あわい~の領域から手繰り寄せた6つの世界「蝕」「朧」「彩」「群」「連」「夢幻」を展開。
